今も静かに時を止め、歴史を語る世界遺産認定都市、アユタヤ。「ロンドンのように見事」と称されたほどの国際都市の歴史を知る旅。
こんにちは、バンコクナビです。広い空、朽ちたレンガ、それを取り囲む緑が美しく調和したアユタヤ(アユッタヤー)の町並み。アユタヤは400年にわたってインドシナ半島の中心として栄えた歴史を持ちますが、現在見られる遺跡のほとんどは、ビルマに徹底的に破壊された悲惨な頃を物語るばかりです。買い物・スパ天国のバンコクから80km、タイの歴史を体験しに行きました。
アユタヤの町は四方を川に囲まれた「島」と、その外側に分けられます。島の中にも外にも遺跡が点在し、見所はたくさん。今回は有名なお寺を3つと、かつての日本人町、アユタヤ郊外にあるバンパイン宮殿へ行ってきました。
ヤイチャイモンコン寺院 (Wat Yai Chai Mongkon)
町のどこからでも見える巨大なチェディと壮観な坐仏像
「チェディ」と呼ばれるスリランカ式の仏塔が有名なこの寺院。チェディの高さは72mといわれています。この寺院は16世紀に、スリランカから帰った僧侶の為につくられた寺院だとか。そんな予備知識を念頭に、お寺を見学してみました。
タイ各地にある、有名な涅槃像。ここの像は他に比べるとそんなに大きいものではない、といいますが、いえいえ、充分大きいです。体長は私×6くらいでしょうかね。信仰の厚いタイ人も、ここでは写真撮影に夢中。「ヌーン、ソーン、サム(1、2、3)!」 なんて声があちこちで聞こえました。
頭のぐりぐり一つが私のコブシと同じくらい
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足の指の第一関節までが手のひらと同じサイズ。
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チェディを囲むようにずらりとならんだ坐仏像。その表情も顔立ちも様々です。スリランカから無事帰った僧侶の顔に似せているんでしょうか?
サンカチャーイ
仏像は作った人の心を表す、と言いますが、戦争の絶えなかったアユタヤ時代に造られた仏像は、豊かだったスコータイの仏像に比べて悲しげな表情をしているそうです。そんな話を思い出し、噛み締めながらチェディの外を歩いていると、スゴイ像を発見。白人さんが周りを取り囲み、笑いながら写真を撮っています。仏像、ではないですね。まばゆいばかりに輝くその身体から張りだしたお腹を大事そうに両手で抱え、満腹気、いや、満足気な表情で見下ろしています。私もにやにや笑いながら写真を撮ったんですが、こんな話を後で聞きました。
この像は、サンカチャーイというお坊さんの像。仏門には、女性とは話してはいけない、触れてもいけない、という厳しい掟がありますが、美男子・サンカチャーイの美しさに町の女性たちは彼を放っておきません。苦悩の末、彼は掟を破らないために自らを醜くしようと考えついて、努めてこの体形を維持し、掟を忠実に守ったのだそうです。彼は悩めるお坊さんの像なのですね。勉強不足でした。
マハタート寺院(Wat Phra Mahathat)
菩提樹に包まれた仏頭が、アユタヤを世界に知らしめた
アユタヤきっての見所と称されるこの寺院は、ビルマに略奪された悲しい過去を物語る寺院としても知られています。激しい戦いの中で破壊され、仏頭をビルマが勝利の記念品として自国に持ち帰ったといわれていますが、そのうちのいくつかは、戦争に負けて貧しくなった市民が商用のために盗んだという話も。
無数にある仏像の中で、頭のある仏像はたった2体だけ。この2体の仏像も後で修復されたもので、新しく作られたことがすぐにわかります。
どのようにして現在の朽ちた仏像群になったにしても、体だけ・足だけが取り残された仏像には物悲しさを感じます。
苔むしたレンガ積みの仏塔は、崩れているものや、傾いているものもあります。広い空の下で太陽にさらされた茶色の遺跡群に、何かしんみりとした気分になりました。
■ こんな看板を発見。日本語だけで書かれているところをみると、日本人によるこのイタズラが後を絶えなかったのでしょうか・・・? アユタヤのみなさん、ごめんなさい。
■ あっ!!頭はこんな所にたくさんありました!(お土産屋さんにて。)
プラ・シー・サンペット寺院(Watb Phra Sri Sanphet)
アユタヤーを代表する、三基の美しいシルエット
王室の守護寺院。1500年、このお寺に、総重量171kgの黄金に覆われた仏像が建立されたものの、ビルマに侵略された際に跡形も無く破壊されてしまったそう。アユタヤー中期の15世紀に建てられた3基のチェディだけが現在も残っていて、静かに並び立っています。
■ 3人の王様の遺骨が納められているそうです。
こちらのお寺のなかには、何体かの仏頭が。これは、戦争が終わり、アユタヤーの復興を始めたときに各地で発見された仏頭を奉っているそうです。この金箔は、お参りをする人たちが貼ったもの。全身像のある仏像では、自分の痛いところと同じ場所に金箔を貼ると良い、とされていますが、ここでは痛い思いをした仏像をいたわり、隙間無く貼ってあげているように見えました。
日本人町跡
タイ人と日本語で会話しよう
16~17世紀、アユタヤーに集まった日本人商人や王宮の傭兵たちの町で、800人~3000人の日本人が住んでいたと言われています。徳川家光が鎖国をする前の時代ですね。
■ 日本語で書かれた記念碑。アユタヤーだよ、アユタヤー! 聞き取りにくかったのでしょうねぇ~。
クロネコさんもタイに出張
日本人のお客さんが多いだけに、みんな日本語が上手!土産物売り場を冷やかしていると、お土産を売るお兄ちゃんに「オトコマエネー」といわれ、冷やかしに行ったつもりが冷やかされました。ね、日本語上手でしょ・・・。「1つ買ったら600円、2つ買ったら1000円!」なんて、どこかで聞いた文句まで聞こえてくるほど。
日本人町に関する歴史を記す資料や、当時の生活がわかるようなものもなく、あるのは日本人むけお土産屋さん。チェンマイでは20Bで売っていたものが80Bで売られていたので、ここでお土産を買う時には品質・値段共に納得できるものだけにするべき!! このお土産屋さんでは日本円も使うことができ、お客さんは見る限り100%日本人。未だ「日本人町」と化している一角でした。
バンパイン宮殿(Bang Pa-in Palace)
本物の高級感とは何か!?王様の夏の宮殿
「Palace」という言葉はホテルやスパなどでよく聞きますよね。王様の気分になれるような、贅沢でリッチで高級で、うっとりする世界を連想させるこの言葉。でも、本当のPalace、宮殿を、実際に見たことはなかったんです。ここにあるもののすべては、王様のためだけにつくられ、集められたもの。柱1本、木1本まで熟考された本物の高級品。
歴代の王が夏を過ごしたこの宮殿。現在見られる主な建物はラーマ5世時代のもので、西洋通の彼がヨーロピアンスタイルにデザインしました。丁寧に刈られた芝を渡す舗道を歩くと、色とりどりの花や大きな菩提樹が目を楽しませ、鳥のさえずり、川のせせらぎがタイミュージックにのせて聴こえてきます。いやぁ、やっぱり本物のPalaceはスゴイですよ。
ガルーダはタイのシンボル。日本で言うところの「菊の紋」ですね
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プラ・ティナン・ウェーハート・チャムルーン
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残念ながら館内の写真撮影はNG!すみません、文字だけで想像して下さい!
雨季、冬期の為の住居は、中に入ってみると、その細やかな細工に驚かされるばかりです。床のタイルの一つ一つに花鳥風月が描かれ、2つと同じ柄はありません。柱や窓枠には彫刻が施され、三国志の物語を描いていました。2階に上がると、ラーマ5世の寝室。中国様式のラーマ5世の寝台や、ラクダの骨で作られた彫刻の贈り物、竜模様のついたてなど、豪華な調度品を見ることが出来ます。これからもタイの宝物として守られてゆくのでしょうね。
アユタヤーの余韻に浸りながらチャオプラヤークルーズ
帰路はチャオプラヤー川をゆっくり下るボートを利用しました。船内でタイ料理のビュッフェを楽しみ、川の流れに身を任せてアユタヤー王朝から現王朝、クルンテープ(バンコク)まで。
バンコクから80km、1時間弱で行くことができるアユタヤー。バンコクの喧騒を忘れてしっとりと歴史を感じられた1日でした!歴史を知ると、タイの国、タイの人のことをもっと深く知れることができるはずですね。
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記事登録日:2005-11-23